高山右近研究

【高山右近をしのぶ会】
キリシタン大名高山右近を顕彰する人々のグループです。 随時入会を受け付けています。

毎年 春 総会・親睦会
毎年 秋 親睦と研修の旅

【高山右近年表】
キリシタン大名高山右近の生涯を年表にまとめました。

年次 西暦 年齢 事項
天文 21 1552 1 摂津高山に飛騨守の長子として生まれる。幼名彦五郎。
永禄 7 1564 12 イルマン・ロレンソより洗礼を受ける。クリスチャンネームは「ジュスト」。
永禄 11 1568 16 信長上洛。右近伏し和田惟政に従い、摂津芥川城を預かる。
元亀 元 1570 18 高山氏高槻に移る。
元亀 2 1571 19 荒木村重、和田氏と戦い、惟政戦死。右近父子馬塚、糖塚を死守する。
天正 元 1573 21 右近父子、和田惟長を討つ。右近高槻城主となり、友祥と称す。荒木村重に属し2万石を食む。
天正 2 1574 22 高槻に天主堂を建立。
天正 4 1576 24 京都の南蛮寺建立に尽力。
天正 6 1578 26 荒木氏の叛に際し、右近高槻城を開城。信長に従い4万石を食む。
天正 7 1579 27 父 飛騨の守、北荘に配流。
天正 8 1580 28 安土セミナリヨ建設に尽力。
天正 9 1581 29 巡察師バリニァーノを迎え、高槻に盛大な復活祭を執行。
天正 10 1582 30 本能寺の変。山崎合戦に先陣。4千石加増。安土セミナリヨを移し、高槻セミナリヨを建つ。
天正 11 1583 31 亀山城攻略に功あり。また江州各地を転戦。大坂南蛮寺建立に尽力。小西行長一家、黒田孝高、蒲生氏郷、牧村政治らを感化、キリスト教に導く。
天正 12 1584 32 小牧山の戦に参加。
天正 13 1585 33 根来征伐、四国征伐等に功あり。明石6万石に移封。
天正 14 1586 34 ゼズス会準管区長コエリヨを伴い大坂城の秀吉に謁見。
天正 15 1587 35 九州征伐に参加。6月伴天連追放令下る。右近また放逐され、行長により小豆島に匿われる。
天正 16 1588 36 行長肥後に移封。前田利家、秀吉に斡旋、右近を加賀に引き取る。
天正 18 1590 38 小田原役に前田氏に属して功あり、秀吉にも謁する。
文禄 元 1592 40 右近、名護屋に赴き秀吉に引見さる。
慶長 元 1596 44 父 飛騨守歿。
慶長 4 1599 47 前田利家歿。右近遺子利長のため大坂に使わす。金沢城修築。
慶長 5 1600 48 関ヶ原役に際し大聖寺を攻める。
慶長 8 1603 51 内藤如安を前田氏客将に世話する。
慶長 10 1605 53 金沢に南蛮寺を建立。
慶長 12 1607 55 宇喜多休閑、前田氏客将となる。
慶長 14 1609 57 利長の命を受け高岡城築城。
慶長 19 1614 62 家康、切支丹禁令を令し、右近らの国外追放を命じる。右近、内藤如安らとともに金沢より長崎を経てマニラに至り、歓迎を受ける。
元和 元
(慶長20)
1615 63 2月3日、マニラに病没す。全マニラ市民により10日間にわたる葬儀が執行され、ゼズス会聖堂に葬られる。

【資料室「右近荘」】
山縣牧師が1985年から始めた高山右近に関する研究と資料を、皆様に見ていただく場として資料室「右近荘」を作りました(画像をクリックすると、大きい写真が別ウィンドウで開きます)。

資料室「右近荘」入り口の写真です。右のパッチワークは「マニラで祈る右近」のお姿です。

 

 

 

 

 

梅染めの着物を着た高山右近の日本画です。

 

 

 

 

 

 

 

摂津(現在の大阪府高槻市)の奉行所が出したキリシタン禁令の高札です。

 

 

 

 

 

教会入り口に置いてある南坊石です。右近が彫らせたと云われています。 新聞に掲載された事もあります。

 

 

 

 

 

 

高山右近に関する新聞記事の切り抜きや、他の右近研究者から提供して頂いた資料をまとめています。

 

 

 

 

 

長旅の末、マニラについた姿を現しています。

高山右近に心惹かれた陶芸家・中野勝二氏 作

(後ろ姿はこちら)

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